106.古いワインほど美味しい?

2017/04/11

  一本のビンの中に閉じ込められている液体。一体ワインとはどんな物質の集合体なのでしょうか。間違いなく80%以上は水そのものでしょう。次に多いのはご存知アルコール。とは言ってもC2H5OHの分子式ゆえに(冒頭のCの価が2であることから)2価のアルコールと呼ばれるエチルアルコール以外にも、ワインの中には何十種類ものアルコールが含まれています。更には原料ぶどう由来の酒石酸、リンゴ酸、コハク酸等々これも何十種類もの天然の酸を含んでいます。実は他のお酒には無くワインというお酒だけの一大特徴は、この含まれている酸の多様性なのです。その他加えて原料ぶどうの生育の関係上、土壌や天候(テロワール)の違いから、色々な物質がビンに封入され、横に寝かせてのビン熟成が始まるのです。
  さて、ビン熟成中に「内部エステル化」という現象が非常にゆっくり進行します。これは上記2大グループのアルコール族と酸族が個別にクロス結合して新しい分子群を作る行程でもあります。数十と数十の掛け合わせですから理論的には数百の新しい分子が誕生することになります。出来上がるものを「エステル族」と呼びますが、総じて芳香性の物質ながら、大量に製成されるとワインの味を損なうことになります。この点、香水とよく似ていなくもありません。超スロウなビン熟成のために年中温度の安定している地下蔵が重用されるのはそのためです。夏暑過ぎたり、冬寒過ぎたりではいけないのです。
  とはいえ結果、何十億円もする精密分析機ならざる人間の鼻や口に届き得るワインの中の物質(分子)の数はというと200~250程というのが定説です。味覚はいざ知らず、嗅覚は人間の2000倍とかいう賢い犬にワイン・ティスティングをさせると意外にすべて産地を当てるかも知れません。トリュフ捜しの世界では犬や豚が活躍しているのですから、決して与太話ではないと思いますが。
  こんな具合ですから結論として古いワインほど複雑で芳香を帯びた味わいになるハズです。もっとも、原料ぶどうの酸がしっかりしていて、「内部エステル化」というビン内熟成が静かに進行したワインに限りますが。地域の温暖化が進み、結果、秋口の「酸落ち」が著しくて、以前のようなワインが作れなくなったという現象はあちこちで起きています。植え付け品種の組み替えが必要となりそうです。
  10年ほど前にパリ在住の坂口氏の引き合わせでボーヌのルモワスネの当主にお会いした時のこと。約束の時間に彼の館を訪ねると、柔道着に黒帯の出で立ちで迎えられました。当方が「わざわざ日本の国技のコスチュームでお迎え下さり、ありがとうございます」と言うと、このフランスのお爺ちゃん、「何を言われる。柔道は今やフランスのスポーツです、競技人口も日本の3倍居るのですから。次は剣道も導入してフランス国内で盛んにするつもりです。」恐るべしフランス。柔道を単なる武技として受け入れているだけでないのは、彼のカクシャクとした振る舞いからも分りました。
  入り口はボーヌ旧市街のド真ん中なのに、当主に連れられ丸で蟻の巣の如き深い地下道をあちこち歩き廻りましたので、きっと旧市街の中の他人の敷地や道路の下を経巡っていたのでしょう。自慢げに彼曰く「ナチスが来た時もこの地下蔵は見付からなかった。」最深最奥部の空間にワインのビンが床に素積みで200本程置いてあり、そのホコリだらけの山から赤茶けた紙片がのぞいていました。鉛筆書きの1948の文字。私も適当に茶目っ気がありますので、そこで長く立ち止まりこの紙片に見入ります。当主曰く、「貴方の生まれた年か。」そこだけは通訳不要で「oui」と私。当主は気軽に2本のビンをつまみ揚げ「上に行って飲んでみよう。」
  「このワインは私の祖父が作ったものだが、作ったときはブルジョワクラス(並みワイン)だった。それでも60年ビンに入れておくとこんな味になった。」淡々と話す彼の声を聞きながら、私は呆けたような面持ちで飲んでいたと思います。確かに私の生まれた年の産ということもあり、美味至極。お気付きの如く、2本目のビンは私へのお土産用でした。粋きを絵に描いたような振る舞いにウットリして辞去しましたが、あのヤワラちゃんのお爺ちゃんに似たご主人、まだお元気でしょうか。