127. 毎年味が違ってこそワイン

2018/01/11

  「そこの黒い髪に黒い眼の『日の出ずる国』から来た青年(以上が教室で付けられた私自身の長~いニックネーム)、よく聴きなさい。現在(1974年当時)きみの国では或る品質のものを均一に大量に作ることが良いことだとなっていますね。しかしワイン作りは違います。作るワインは毎年味が異って当然だし、味が違わないものはワインではないのです。」ドイツの国立ワイン学校でのこと。或る教授に言われ私は何と大胆な言葉かと思ったり、ちょっとヒネくれて、随分と格好の良いタテマエ論だなあと考えたりしました。
  時は流れて40年後の現在。やっとその教授の言った真意に辿り着きました。確かにワインは原材料であるぶどうの品質に強く依存する特異なお酒です。ソムリエと呼ばれる味利きの評論家諸氏は気候や異常気象、土壌等の諸条件を併せて「テロワール」と名付け、それ故にワインは毎年味が微妙に異なると論じますが、ワインを作る側で長く暮らしますと、いやでも或ることに気付かされます。ワインの味が毎年違うのはテロワールの相違もさることながら、作り手が毎度作り方を少し変えているからなのです。
  ちょっと乱暴な比較ですが、例えば日本酒の原料である米に比べてワインぶどうは驚く程歳々の原料の状態が違います。割合安定している品質の米を手に取って、よし今年も最高のあんな酒を作ってみよう、という想念がワイン作りの場合全然湧かないのです。自分が畑で手塩に掛けたぶどうを自ら収穫して何とか美味しいワインにしてみよう、という気概は確かにあります。しかし、どんな味を目標にと、それが無いのです。兎に角、去年とも一昨年とも、甘みも酸味も香りの多寡までもが丸切り異なる原料ぶどうと対峙する時、今年一年の畑でのぶどう作りのことが色々想い出されます。どう作ったら、どんな味のワインになるだろうか。何度も何度も考えながら、今年の作り方をプランします。なまじ原料作りまでしているものですから、そうなるのでしょうね。唐突な比喩ながら、女性が自分で産んだ赤ん坊を、自分や父親の性質を考えながらどうやって一人前の人間に育て上げようか、というのと似ていなくもありません。
  原料を自分で熱心に育てる気のない人はワイナリー経営をしているとは言わないでください。そんな声が聞こえて来そうな「新ワイン法」です。以上の如き経緯から申しまして、当然のことですが、ぶどうの育て方もワインの作り方も先ずは技術をきちんと学ぶところから出発しなければいけません。付け焼き刃の知識・技術で、「自然農法」・「天然酵母」等々脇道に逃げ、貧弱な設備で何はともあれワインを作りたい。一番いけないワイン作りがそこにあると私は思います。