146.Kernerという品種について

2018/12/22

  人生、本当に面白い巡り合わせというものがあるものです。1974年、私はワインぶどうの栽培法とワインの醸造法、そして分析法やらマーケティング等を学びに西ドイツの国立の学校(2年制で日本の大学院か研究所に相当しましょうか)に入りました。この学校は大きな60ha程の畑を経営していて、そのぶどうから国内最上級のワインを作って販売し、しかも将来を見据えて新しい品種のぶどうを交配すべく、育種試験場も併設して運営していました。この試験場が、さすがワイン国だけあって大きいのです。
  場長はDr.ヘルム―ト・シュライプといって、私のことをとても可愛がってくれました。因みに、この頃の西独政権党SPDの党首がヘルムート・シュミット、野党CDUの党首がヘルムート・コール、私が左ウィングに選ばれた町のサッカーチーム監督が元ブンデス・リーガ・プレイヤーのヘルムート・シュヴァイツァー、と周りの偉い人はヘルムートだらけでした。Dr.シュライプは「君のお父さんと同じ側に立って戦った」が口癖で、ゲルマン魂のかたまりのようなお爺ちゃんでしたが、無理を承知で彼に何度もお願いしました。それはその直前の1969年にこの研究所から品種登録されて世に出たばかりの、Kerner(ケルナー)という世にも珍しい良い香りのする品種を私が日本に持ち帰ること。ドイツ国外持ち出し禁止品種と充分に知ってのことです。
  卒業の時になって、彼にこっそり呼ばれました。彼の計画では品種名を伏せて他の40の品種と共に一緒にプレゼントしよう、との提案。小躍りしたのは、言うまでもありません。彼曰く、「有用な品種は世界に広めてこそ意味がある。」(いや本音は、「日本にだったら出しても良い」だったと私は思っています。)各品種400本分、合計で膨大な量の苗木を私が運ぶこととなりました。
  “Boys, be ambitious!”(現代訳ですと、「若者よ、起業せよ!」でしょうか)と遠くを指さす、かのクラーク像の近くにある、農林省植物防疫所・月寒出張所の畑に1年植えて、病害虫の有無を検査した後に、この苗は北海道庁と小樽の北海道ワイン(株)が半々に分け合いました。1977年のことです。私がこの会社の社員だったからです。
  北海道ワイン(株)浦臼農場を皮切りに、その後長野県の標高700mの村、新潟の浜辺と、特にこのKernerは必ず1,000本程植えてみました。ところが耐寒性の強い品種であると同時に、秋から初冬にかけての強い寒気の洗礼を受けなければ、あのノーブルな香りが立ち上がらない特殊性のため、本州での栽培は諦めた経緯があります。そして、どうでしょう、北海道を26年も留守にして、余市に舞い戻って来ましたら、嬉しいことにこの品種が余市町の主流品種(40ha程)となっているではないですか。現在の私は温暖化を考慮して、フレンチ系ぶどう品種を中心に栽培しています。それでも500本だけ、しかも建物に一番近いところにこのKernerを植えました。我がDr.ヘルムート・シュライプを偲んでのことです。
  かつての同盟国に対する想いからプレゼントして下さったシュライプ博士。しかも私は、教育こそ無料という西ドイツでの勉学だったため、授業料も寮費も食費も全く要らず、という状況下での話です。自分で言うのも何ですが、非常に意固地で、我が国では敵を作り易い私ですが、逆にそんなところがこの博士にとても好かれたことを実感しています。
  こんな良いエピソードに包まれた品種なのに、「Kernerは私が持って来た」と嘘の自慢話をしている輩がこの地に居るのを、余市に来て初めて知りました。余市町公報の「余市町でおこったこんな話」に載っています。びっくりです。何のためでしょうか。非常につまらない話ですので、訂正させましょう。(自己修正申告の猶予を2ヶ月程あげましょう。)分かりますね、元中央農試職員のMさん。
  ドイツの学校(育種試験場)があった町の郷土の英雄というべき人がJustinus Kerner(ユスティーヌス・ケルナー)という医者で詩人でもあった人です。このぶどう品種名は彼の名前に由来します。19世紀初頭のナポレオン東征時、果敢にも義勇軍を組織してそれと闘ったのだそうです。学校の向かいに記念館があります。