152.私のワイン作り人生②

2019/02/02

何も知らない青年が彼の国で理論を修め帰国してみると、日本は経歴詐称のワイン作りで炎上中だったことになります。叔父の会社(小樽ワイン)は北海道庁の支援を受けて始めたので、さすがに輸入原料は使用せずここまで40年余歩んで来ました。しかし昭和初年生まれの叔父の価値観からすると、沢山作って沢山売ってこそ立派な会社という想念からは開放され得ず、何でもよいから沢山作れとばかりに食用ぶどうからお土産ワイン的な甘いワインを大量に作る会社となってしまいました。
  ヨーロッパで余りにも純粋のワイン作りを植え込まれたせいでしょうか、持ち前のファイティング・スピリットに火が付き、何処か他の地で自分独自の実験をしようと思っていたら、長野のジャム会社(サン・クゼール)が私を求めました。ところがこの会社も3年後に経営者が簡便法(要するに輸入詐欺ワイン作り)を知った時点で物別れとなり、40才になって新潟へ下りて来ました。標高700mから10m程のところへ。そこで自己のワイン会社(カーブドッチ)を作り、やっと自分の理想のワイン作りを始めました。Vitis vinifera(ヴィティス・ヴィニフェラ)という欧州系ワイン専用ぶどう栽培に専心し、敷地もきれいなガーデンで覆って各種料理のレストランのみならず、温泉付きのホテルや美容院、エステも併設して、完全に自意識の高い女性層をターゲットに絞り込んだ事業を作り上げたのです。
  評判となり、2011年12月に「カンブリア宮殿」にも出演しました。外面的には私の人生の絶頂期と思われそうな時代でした。しかし、常に現状否定の自己改革を人生の身上としている自分が、この瞬間完全に袋小路に迷い込んでいたのも事実です。会社は社員160名を抱え14億円を売り上げて年間40万人を集客し、と順調そのものでした。半面、以前のチャレンジ精神やらファイティング・スピリットの面影が、日に日に自己から失せていくのは毎朝鏡を見ていれば分かります。
  かつて大学を辞めた時も叔父と始めたワイナリーを辞めた時も、そして長野のジャム屋を辞めた時も瞬間の決断でそうしたのに、新潟ではなまじ成功していたものだから仲々糞切りが着かない有様。何といっても叔父の会社や長野の会社では役員だったものの雇われで、新潟で20年かかって作り上げた会社は、自分自身が創業した永世独裁体制の組織。皮肉なことに、精神的に本当に身動きも出来ないような状態でした。
  それでもチャンスは又々偶然やって来ました。「カンブリア宮殿」放映直前の頃、丁度20才年下(誕生日が一緒)の独身女性がやって来て、私の弟子になりたい、と言ったのです。面白いもので軽口をたたくのが大好きな私は、その時、「いっそのこと、僕の嫁さんになったら」と言いました。会社の近くで彼女のために小さくとも素晴らしいワイナリーをもうひとつ作ってみるのも悪くないと。自分が任命し永年可愛がって来た若手の役員達の反応は、しかし非常に否定的でした。社長がすぐ横でいくら小さくても独立したワイナリーを開いたら、お客をそちらに奪われて本体がおかしくなる、と。正確には「競業避止義務違反」と法律用語では言うらしいのですが、「俺が俺のノウハウでここまで仕上げ、しかもお前達をここまで登用したのも俺で、、、、」と腹は立ちましたものの、それは言わず、ひと晩考えて決心して副社長宛てに辞表を提出し、すぐに北海道へ移って来ました。大学時代からずっと仲の良い友人達は、「お前ならこれもありか」と高い次元で私の行動を笑いながら評価して呉れましたものの、新潟・東京に多くいた私の事業のファンは今だに私の損得バランス感覚が分からないと言ってはいますが。生意気なようですが、損得勘定だけで人生の分岐店に於いてどちらにするか決めていたら、死ぬ時必ずや後悔する。人生は一度切りなのだから、というのが揺るがぬ信念です。常に生意気でいること、決断を他人のせいにしないこと。お陰様でぐっすり眠れます。きっと思いっ切り満足して死ねることでしょう。