66.「差し木苗について」

2016/03/18

 現在はいざ知らず、今から55年程前の昭和30年代には中学校に「技術・家庭」という科目がありました。今風に言うと日曜大工、模型組立て、園芸、料理、家事一般等々すべてを含んだ学科で「美術」「音楽」と並んで、将来の大学受験には一切関係なさそうで、生徒達にとっては肩から力を抜いて楽しめる学科だったと思います。
 その中で木本(もくほん)植物の増殖には「差し木」「接ぎ木(継ぎ木)」、「取り木」の三方法があると教えられました。他の人よりは十二分に、より異なる物に興味を持つ性癖の私ゆえ大いにのめり込み、父は田舎の営林署勤めで大きな庭付きの官舎住まいでしたから、この三方法を色々と試したのを覚えています。中学生の私の力ではどの方法もどんな植物でも成功しなかったことまで、よく覚えていますが・・・。
 長じて、その世界にどっぷりと浸かった生活をしております。庭の樹木やワインぶどうの苗木作りのことです。上記三方法に加えて育種試験場レベルでは成長点培養や遺伝子組み替え等も行われているのかも知れませんが、ワインぶどう栽培の実務面に於いて行われているのは殆んど「接ぎ木」のみです。理由はいくつかありますが、歴史的な時間の軸に沿って説明を試みます。
 古い古い昔の話、といっても紀元前数千年頃のワインぶどう苗の移動は、実生(みしょう)でおこなわれていたと言います。ぶどうの種子を持って行って播くところから始めたのです。例えばキプロス島でその頃の基準で美味しいワインになるぶどう種子を得て、遠く離れたイタリア半島に播いても、発生学的に決して同じぶどうの木は育ち上がって来ません。しかしその当時のことで、何となく似た味になれば誰も文句を言いません。世紀は移って紀元後になっても、ナイル下流域のぶどう種子がフランスはローヌ河中流域に播かれ育ってピノ・ノワールになったり、つい千年程前もボルドー下流域の赤ワイン用品種の種子が南下してピレネー山脈を越えたスペインのリオハに播かれてテンプラニーリョになったり、ということが起きたと言われています。
結果、種子で育てる「実生(みしょう)増殖」は同じものが発現しないということで用いられなくなり、中世以降は、三方法のうち一番手軽な「差し木」での増殖が主流となります。(理屈っぽさついでに申しますと「実生増殖」は生殖を仲立ちとしていますので「生殖型増殖」と言えますし、それに反し「差し木」「接ぎ木」「取り木」は「非生殖型増殖」といえます。要するに「差し木」「接ぎ木」「取り木」は、全く同じ植物体を作り出すクローン増殖そのものなのです。とにかく「差し木」は丸切り同じものが簡単にいくらでも殆んどタダで作れる。メデタシ、メデタシですが、しかしそういう時代はそれ程永く続きません。「差し木」には大きな欠点があったのです。
フィロキセラという悪魔の出現です。ブドウノコブムシとかブドウジラミという異名もあるようですが、とにかく19世紀後半、この体長1cmにも満たない蛾の幼虫が船に乗ってアメリカ合衆国から欧州に渡来し大暴れします。ぶどうの根の芯に入って組織を食い荒らし、或る日ぶどうの木そのものを「突然死」させるのですが、驚くべきはその繁殖力。昆虫でありながら完全変態も不完全変態もしながら、ひとシーズンに何度も交番し大増殖します。しかも成虫は蛾で飛んで大きく移動しますから手に負えず、まさに瞬時に欧州を席捲する勢いとなったのです。
余談ながら、日本の維新直後1870年代に、明治政府は脱亜入欧よろしくワイン用ぶどう苗を大量に輸入し、各県庁所在地にあった農業試験場で成育試験をしますが、暖かく湿った気候もさることながら、どうもこのフィロキセラ汚染苗が入って来たのが理由の一つで、これらのぶどう苗は全滅したようです。札幌市の中央部に苗穂という地名がありますが、きっとここが育種試験場だったのかも知れません。とにかく、先日入手した北海道庁の資料では明治初頭に札幌でフィロキセラが確認されたとあります。
ワインの本場欧州はこの未増有の危機をどう乗り切ったのでしょうか。この害虫がヴィニフェラというワイン専用のぶどう品種群にしか寄生しないことに気が付き、品種の改良が行われます。この害虫の最初の侵入口と考えられたマルセーユの近郊にモンペリエという町がありますが、そこの研究所でこの害虫の絶対寄生しない系統のぶどうと在来の欧州系ワイン用ぶどうの交配が色々試みられます。20世紀も初頭になって、その研究所のDr,セーベルの交配したシリーズ(専門的にはフレンチ・ハイブリッドと呼びます)が、味もそれ程まずくないし、害虫フィロキセラにも侵されないということで脚光を浴び、さてデビューという段になって異変が起きます。欧州中のワインぶどう全滅が予想された際の新品種発明ですから、人々はこのセーベル氏を賞讃しましたが、それも束の間の栄光にすぎず、同時進行していたもうひとつの「発明」が成されたのです。
その発明こそ「高能率接ぎ木法」です。地上部分を従来の欧州系ワイン用ぶどう品種、そして地下に入る部分を害虫フィロキセラの嫌う、かなりイヤな臭いを発する非ワイン用ぶどう。この両者をつないで苗にする方法が確立されたのです。しかも効率良く大量に生産する方法が。
Dr.セーベルの発明は捨て去られました。やはり純正品種もののワインと較べると格段にまずい味と気が付いたからです。人間とは勝手なものです。一瞬の英雄だったDr.セーベルの胸中や何如に。しかし人生とは良くしたもので、彼の無念を想ってか、そして例え一時期でも人類のワインに対する夢をつないで呉れた人と崇拝の念を抱いてか、モンペリエの駅前の広場に彼の銅像を建てました。だってそうでしょう。もう人類はまともなワインが飲めなくなると、19世紀末に欧州をあげて大騒ぎしたのも事実なのですから。
又々余談ながら、このセーベル・シリーズには続きがあります。世界中がその味ゆえに捨て去ったDr.セーベルの発明品を日本に持ち込んだ人々がいます。フィロキセラに強いことと併せて、強い耐寒性を有していることに着目し、北海道東部の純粋欧州系ワイン用ぶどうが成育しない地帯に売り込んだのです。S(セーベル)-13053、S-5279、S-10087、S-9110という4つの品種です。ワインは全くいけません。どんなに改良をしても無理というのが私の考えです。我が町余市町や隣りの仁木町にもほんのちょっぴりその名残りがあります。
さて、このDr.セーベルでもお分かりのように、発明者は必ずといってよい程、その発明に際して複数の目的を追求します。Dr.セーベルの場合、耐フィロキセラ性と耐寒性です。ですから同様に「接ぎ木」の世界でも地中に入る台木に色々な特性を持たせるべく研究が進みます。耐フィロキセラ性に加えて、成長安定性、土壌適応性等々も考えて台木の品種も選ばれますから、もう現代の苗木は過去のそれと大違い。いくら北海道では明治初頭以来約100年以上発生例が無いからといって欧州系ぶどうを「差し木」で増やすのには難があります。
上述しましたように、根に入る害虫ですから、隣の「差し木」の畑が全滅しても、こちらの「接ぎ木」のぶどう畑は殆んど無事です。多少成虫である蛾の大量発生の害はあるかもしれません。しかし、かつて1980年代にカリフォルニアのナパ郡であった例を申しますと、タカをくくって差し木にしていた畑が全滅し、何軒かのワイナリーが倒産したのです。風評被害もあってこのワインゾーンは一時低迷しましたが、倒産したワイナリーは、もしもの危険を無視した、いわゆる公序良俗に反した人々ゆえ、その後まともな経営者に買収されてより良いワインゾーンが出現したことにもなります。
昨年末の表示法改正ゆえに、輸入ワイン・輸入果汁に頼らないワイン作りを目指して、ワイン用ぶどうを植える動きが急に強まり、日本中接ぎ木苗が殆んどありません。私をはじめ何人かの人々が、急いで差し木するなかれと警鐘を鳴らしても、仲々言うことを聞いて貰えないのが、我が町余市町の実情です。理由のひとつはかつて生食用ぶどうを栽培した経験があるからではないでしょうか。生食用ぶどうは、いわゆる耐フィロキセラ系で差し木でも根に害虫が入りません。そういえばナパでも生食用のぶどうを扱ってワイン作りをしていた時代が1970年代まであり、その流れで差し木の畑を作った人々がいたという歴史があります。聞くところによると、山梨県、長野県はワイン用ぶどうの差し木を行政が禁じているそうです。北海道も是非そのようにして下されば、と考えます。己れの為なのですから。