68.パン職人のコンクール

2016/03/22

 妻と一緒に札幌の専門学校で開かれたパン職人コンクールに行って来ました。午前10時から夕方6時半まで、美味しそうな香りの中、最終の決勝に残った6人の技術をこの目で見ながら、合い間合い間には色々なパンや料理を頂き、とまことに楽しい一日を過ごすことが出来ました。
 かつて新潟でワイナリーを経営していた時も、かなり大きなパン部門を持っていました。ワインに適った、しかも敷地内でさえ5店舗あるレストラン群の需要を充たすため、ハード系のパンを主体に大量にパンを作っていた時のことをちょっぴり想い出しました。職長を二度もドイツのパン屋さんに研修で連れて行ったりしたものですから、門前の小僧よろしくパン作りについては少々ウルサイつもりで出掛けました。かなり本物のコンクールで、日本中から50名弱の腕に覚えのある職人さんが参加したとのこと。
 コンクールですから、最後の1時間は表彰式で、勝ち残った6人の職人さんには色々な賞が贈られたましたものの、私としては審査委員長で私と似た年令の、きっと国内の製パン業界ではとても有名な人物の後評が一番印象に残る話でした。
 私の大好きな喋り方をする人で、開口一番「予選から(きっと前々日から)付き合わされていて、喰うに耐えないパンも幾つかあったが・・」と、おお仲々言うなといった感じ。「でも少し長くなりますが、今日お集まりの皆さんには是非とも伝えたいエピソードがあります。」この話がとても面白かったので紹介しましょう。
 昭和29年秋、フランスから一人の大学教授(私の聞き取りではガルポ氏。でもきっと間違い)が日本に見えて、まだ国内航空路未発達の頃ゆえ、陸路札幌を皮切りに全国20ヶ所を巡りながら、フランス・パンの製造技術を教え歩いた。この年の二百十日の日に例の台風15号による洞爺丸の事故が発生するのですが、ほんのちょっとした差で教授は遭難を免れたとのこと。教授は神の加護を強く感じパン技術の「布教」をより熱心に行い、今日の我が国でのフランス・パン作り隆生の基礎が作られた。付けて加えて、日本に最初に「布教」に来た人が天才的なパン職人ではなく、理論から教える教授だったことが、後々の日本のパン作りに幸いした。もしあれが天才職人だったら、単なるショーに終わったかも知れない。と、こんな話でした。要するにこのコンクールもショーではなく、基礎教育の輪を拡げる、その一助にするのが眼目ということです。ワインの世界に翻案するなら、米国デービス校の教授を招くならばショーにせず、きちんとした施設で、しかもきれいな畑の近くで、有意の人々を教える。後の継続教育例えば米国デービス校への進学も幹錠する位の意気込みで行うべきであろうと、新聞の記事を読みながら思いました。
 パン職人のコンクールは2年毎に開かれ、今回のテーマは北海道産小麦を使用してとのことで、私の敬愛する江別製粉の安孫子社長も感想を述べられました。後援の北海道庁からも農政部の偉い方がいらして祝辞を述べられ、ああここでも北海道地域創成の大きな歯車が廻っているなと感じました。
 この専門学校は小路をはさんで東京ドームホテルの向かいにあり、次回のコンクールはどうやってもっと盛り上げられるだろうか、と頼まれもしないのに私は考えました。ホテルとタイアップして大きなフロアーを借り、プレゼンテーションを行う。超人気の1階のホテルレストランとも連繋して、その日は(3日間位は)パン食べ放題の特別メニューを用意する。専門学校の生徒さん達はこの日に備えてホテルスタッフにトレーニングを受けて、一緒にたち働く。お客さんは、学校とホテルを行ったり来たり。如何でしょうか。そもそも今回パン職人のコンクールに出掛けたのは、私共もいよいよパン工房兼プチ・レストランを計画しているからです。かつて(といっても僅か3年半前ですが)日本一美しいワイナリーを作るといってスタートした私共のワイナリー。手前味噌でも何でもなく、現実にとてもきれいな空間に仕上がり、その中に実用と修景を兼ねたパン工房を作りたいと考えているのです。以前の新潟でもそうでしたが、結局パン作りは人間で決まる、という思いを新たにした次第です。
 余りにもパンを食べ過ぎた反動でしょうか、帰路とても汁物が欲しくなり、大好きな小樽の「まほろラーメン」に立ち寄ることとなりました。