69.「日本ワイン」②ワイン作り、これからの方向性。

2016/03/25

 先日雑誌で読んだことですが、将棋の羽生善治名人曰く、「十何手先を読むとか言いますが、私の場合それはない。最高で三手先くらいか。」この天才にしてこの言葉ありです。でもよくそこまで言えるなあ、というのが私の感想。余程奥義を極めたからこそ言えるのでしょうか。否な、俺はそんじょそこらのタレントじゃないよ、とも聞こえて非常に心地よい。手品師ではないのだから、最高位の人とはいえ、いや最高位なればこそ、自己の理念と勘を信じて行動するのでしょう。それにしても簡明な言葉の裏に何やら深い思想がありそうで、しばし(私の場合、何日も)考えさせられました。
 話をワイン作りの方に移しますと、私がワインを作る時、そのワインとの対戦は毎度一手先しか見えていないようにも思われます。とにかく毎回同じ品種群のぶどうで作っていて、相手(ワイン)の考えていることが全く分らないことが多いのです。よって、相手の出方を見て対処法を考える、となります。何を馬鹿な、とどうぞお考えください。私は決して羽生名人のように深い思索を巡したような(彼にはその資格があり、そんな世界だと思いますが)眼な指しで答える訳ではありません。本当に、そんな物凄い世界ではないのですから。
 皆様はご存知かどうか分かりませんが、ことワイン作りの世界では、日本酒のように毎度毎度似たように作る、もしくは同じ味に近付けるという努力を一切しないのです。毎秋与えられる原料ぶどうの性質が余りにも異なるものですから、丸切り違ったワインが出来て当然、というところからスタートします。そんなの責任放棄だ、腕の悪い人間の言い逃れだ。どうぞどうぞお好きなようにおっしゃって下さい。
 わたしの持論では、原材料がこれ程毎回異質で、しかも原材料依存度のこれ程高い農産物加工品も珍しい。飲み手はいざ知らず、作り手の側の人々がこのワインというものに魅せられるのは、きっとそんな理由からでしょう。或る文献では、現在地球上には60万軒弱のワイナリーが存在するとのこと。基本的にはワインは作られた近辺で殆んど消費される「地酒流通性」の高いお酒です。ですから飲み手の側も、そのぶどうが穫れた年の気候はよく覚えているし、そのラベルに書いてあるぶどう収穫地のことも土壌から日当たり、水はけまで何でもよく知っている。作っている人間のクセまで知り尽くしている飲み手もいることでしょう。考えてもみて下さい。そのような状況下で「私が魂を込めて作りました」だの「一粒一粒心を込めて育てたぶどうから作りました」だの言ってみても、底が抜けていて笑われるのが、関の山といったところ。何度でも申し上げますが、この道に名人も天才も存在しません。江戸時代の味噌作りのように、勤勉に誠実に、そして丁寧に作れば、地元の人々は大いに愛でて呉れるのです。そうです、ワインは良き原料ぶどうと、現代に於いては良き設備と、お客様に嘘を言わない真のホスピタリティー(お客様至上主義)があれば、かなりのものとなるハズです。背伸びをしないこと、自分に正直であること、そして出来れば自分の人生と自分のワイン作りというものを無理なく重ね合わせてみること。そんなことどもに尽きる、まことに居心地の良い、適当に苦難もある楽しい世界、だと私は思っています。真のワイン時代を目指す日本のワイン作り現場のこれからがそうでありますように、と願うばかりです。
 とここまで書いて急に思い当たりました。考えてみれば羽生名人の対戦相手も相当の手練れのハズ。羽生名人が先方の手を読む時は必ずや相手の全人格を択えて推察するのでしょうから、そんな無茶苦茶複雑なことまで考えなくてもよろしいのでしょう。名人と名人の読みあい。だからせいぜい三手先なのでしょう。第何手目に相手が猫じゃらし(相撲の手)のような手をからめて、と考えたらキリがありませんから。剣豪同士の立ち会いが一瞬で決まる、アレですきっと。こちらの勘が相手の勘を択える。なあんて、私も分かったようなことを言ってますね。