179.ワイン作りは北海道のどこで 

2020/3/11

ワイン作りの観点から、と言うよりはdirectに「ワイン用ブドウ栽培」の視点に立って考えた揚げ句、私は余市を選びました。数日単位なら、今迄日本中を色々と視て歩きましたし、長く住み着いて自分自身が何万本単位で栽培を行ったところも、北海道・長野・新潟で4カ所あります。そうです、ドイツ・オーストリアでの勉学・研修後43年前に帰国して以来、実践しながら考え、更に工夫を施すを繰り返して参りました。その結果、ワイン用ぶどう(以下ヴィニフェラと呼びます)栽培の地として余市を選んだのには確たる理由があります。
  20世紀最晩年ともいうべき1998年頃から、私自身、日本の温暖化を強く意識するようになりました。その頃は新潟市南郊に居て、7年かけてやっと記念すべきワイナリー「カーブ・ドッチ」を完成させたばかりでした。そして丁度その頃から新潟の平野部でも、それ迄意識しなかった梅雨が本格化し、台風やそれのもたらす秋の熱波が居座り始めたのです。それ迄北日本域にあった新潟が西日本域に組み込まれたと表現すべきでしょうか。とにかく盆になっても残暑ならざる熱帯夜が続いたり、本当の秋がやって来なくなったりと…。次はどこにすべきか。梅雨の来ない所。台風の来ない所。秋がきちんと来る所。ヴィニフェラの中でもフレンチ系の高級ワイン用品種の栽培が可能な所。広い農地を得られる所。自在にランドスケープ・デザインも出来る所。
そこできっと年平均気温上昇は2度には満たないものの、確実にフレンチ系品種の栽培が可能な地と変貌した余市に着目しました。実は新潟で事業を興した1992年から2000年迄の9年間、余市の4軒の農家と契約してドイツ系ヴィニフェラを栽培して貰い、せっせと小樽―新潟のフェリーに載せて運んでワイン化していましたので、毎年2~3度は必ずこの地を訪れていたのです。
  別に自慢する訳ではありませんが、これだけあちこちヴィニフェラを植えて歩いていると(そして、それからワインを作っていると)自然とある結論に達します。ワインというものはぶどうそのものだと。余市の気候や土壌を自分なりに研究しました。契約栽培ではなく自分でワイナリーを興すべき土地としてです。
  何故雪が少なく、厳寒期の気温が余り下らないのだろうか。暖流(対馬海流)の最後の熱が届く所だからか。眼の前にある石狩湾と余市町中央を流れる余市川の二つの大きな水面が、夏も冬も気候を和らげているからか。年中吹く強い西風・南西風・南風・南東風・東風を積丹や諸々の山々が防いで呉れるからか。
  これらの気象・地理条件は今から約140年前に、この地をリンゴやナシ、ブドウの里として選んだ、明治政府のお雇いアメリカ人の指導者達がとうに気付いていたことです。それ故余市は(そして仁木も)その後ずっと現在に至る迄、北海道全体を支えるビタミンC供給基地だったのです。
ランドスケープ(景観)を整えることも考えながら大きく造成しますので、造成後にヨウ燐(燐酸成分)や堆肥(窒素成分)を投入して、土壌改良もしましたが、元々が1900年(明治33年)の最初の開墾以来、先人達の作り上げた表土を尊重しながらの土作りゆえ、かなり恵まれた土壌でもありました。
2013年2014年に植えた6haは、もう順調に実を成らせていますので、更にあと4ha程植えるべく隣に土地を買い増ししました。
と、ここまでのこの地での実績を背景に、余市が一番と言うつもりはないまでも、明らかに気候的に難しい北海道北部や東部、そして南部の半島部(この地帯では開花期に湧く霧が果樹栽培の大敵です)でのヴィニフェラ栽培の挑戦は諦めるべきと考えます。失敗は個人の責任だからと、傍観を決め込むつもりは毛頭ありません。かつて自分が傾倒した実存主義の本義は「社会参加」(現地の人々と共に生きる)なのですから。「あとは野となれ山となれ」では決してなく、すべてのことに関わってゆくのが、自分の生き方だと思っています。