9.「Plain living, high thinking」

20155

William Wordsworthの詩の一節と記憶します。東京外語大英米科の歴史に残る劣等生、と言われたこともある私の引用ですから、どうせ与太話だと考えてくださっても結構。しかし不出来の生徒ながら、この言葉に大いなる感銘を受けたのも事実です。もっと叱られそうですが、福田恆存先生ならば、どう和訳したでしょう。

「平明に生き、気高く考えよ」これじゃ0点ですね。「質素なる生活、高邁な思索」こりゃあ、もっと悪い。まあ翻訳は叶わずとも、意味は理解したつもりで生きています。

 私は生まれが鹿児島で、いかにもこの徳川中期の英国人と似た考えを持った父に教えられたせいか、更にはワイン作りやその他諸々のことを20代にドイツで仕込まれたこともあってか、自分からも、そして他人から見ても「分かり易く生きること」を心掛けて来ました。行動も、発言も、そして文章も相手が読み違えないように、はっきり分かるように表現しよう。一応、多少は利口なつもりです。人よりは沢山本を読もうとします。記録するより記憶する、言い訳するより行動する。遠回しな表現なんかすると、自分自身がおかしくなってしまう頭の構造なのかもしれません。

 利口な人間が利口そうに振る舞い、なるべく言わない、行わない。そんな人がいっぱい居て、これじゃ人生詰まらない、と20才頃気付きました。まともな会社に入るのを諦めました。自分が少しでも利口だと思うなら、身を粉にして働き、自分の真意を周囲に理解して欲しいのならば、半数以上に嫌われるのは覚悟で、正確に自分の思いを述べよう。先述フランスのサルトルと同時代人、アルベール・カミュの”la peste”じゃありませんが、利口が気取って格好良く振る舞おうとするよりは、己の直観に従って行動したほうが最低自分にとってだけでも良き結果を得られると思います。信州の鎌田医師の方が、都会のノーベル賞受賞者より遙かに気高く感じられるのと一緒です。田舎では、このような正直な人が都会よりは見分け易く、しかもその数は意外に多い。勿論、多少ひねくれてはいますが、、、。

 此の度アメリカを訪れ、表記ワーズワースの時代に移り来た人々を祖先に持つ人々に接するにつけ、“Plain living, high thinking”の気持ちを新たにしました。