53.フェルディナントとモニカ

2015/09/27

 40年前・西ドイツに行って、ワインの学校の始まる前、まだドイツ語の勉強をしていた頃。近くに住む陽気で外交的な若夫婦と知り合いになりました。フェルディナント・シルメラー氏とその御夫人のモニカ。
 或る好天の日曜の朝。二人が私のところにやって来て、シュツットガルト市郊外にある動物園Wilhelma(ヴィルヘルマ。どうも王様の名をとって付けた名らしい。)へ行こうと強く誘います。動物園は好きじゃないと私が言っても、「このヴィルヘルマは霊長類の研究で世界的に有名なんだ。見ておかないと損をする」とまで言われて、彼らと我がご先祖様の研究に出掛けました。
 屋外駐車場は満杯で、一番遠くに停めて、数百台の車の間を一緒に歩いていると、急にフェルディナントが立ち停まり、一台の車のタイヤをひざまづいて見始めました。続けて、ポケットからメモ紙を取り出し車のナンバーを控えるのです。まだ携帯のない時代で、駐車場の端にある公衆電話まで行って、何やら話しています。帰って来た彼に私は、「一体どうしたの」。「いやあ、車のタイヤのトレッドがすり減っていたので警察に電話で報告したんだよ。」「どうして?」「だってそうだろう。あの車の運転手がスリップして事故を起こせば、他の人も怪我をするだろう。これは市民の義務なんだ。」
 彼の言うことはごもっともでも、何やら「密告」という言葉が思い起こされて、暗い気持ちになりました。ナチス時代のユダヤ人摘発もこうだったのかなあ、と。とにかく、抜け駆けを許さない風潮が色濃く在るのがドイツです。
 でもこのフェルディナント君、ホロッとさせられるところもある人でした。或る日夕食に招ばれてその席で、「オチ君、僕達はこれから4週間カナダ旅行に行って来るから。」「えっ?どうして」「妻のモニカがカナダ大使館に勤めているのは、以前言ったよね。だからバカンスを続けて4週間取って、2人で2度目の新婚旅行だ。カナダという国をじっくり研究してくる。」「奥さんは分った。でも君は違う会社で働いていて、休みをそんなに長く取れるの?」「一年分をまとめて取ったんだ。」
 確かに先進国では、日本とアメリカを除いて年休の制度がしっかりしていて、しかも長いのです。それでも実情としては、一度にまとめて4週間も平気で申請するような男は決して出世しません。あの愛妻家のフェルディナント君、今頃どうしているのでしょう。