61.北海道とアメリカ合衆国

2016/01/14

 1966年(昭和41年)東京外語大・英米科に入学した時、担任の先生より“The American History”という大部の本を与えられました。正式には駐日アメリカ大使館より各生徒に貸与されたものですが、これがすこぶる面白い教科書でした。何といっても、現代の世界を大きく動かしているこの国の歴史は、驚くなかれ200年にも満たず(現時点でも僅か240年)、歴史的事象の因果が我が国の歴史と較べると非常に分かり易いのです。もっとも、かの国の歴史が分かり易いのは、単に時間が短いだけではなく彼らの性格にも依るのですが。
 幕末・維新よりこの方の日本史は、日本人たる私達にとって何よりも興味深いものですが、その歴史をアメリカ合衆国の側から見ながら読み進めると、意外なことがいくつも発見出来ます。有用なことも、又無用に見える小さなことどもも。
 幕末にペリーが蒸汽船で浦賀に来航しと私達は習いますが、では彼らは一体何処からやって来たのでしょう。1853年(嘉永6年)のことです。そうです。アメリカ海軍はまだ西海岸にきちんとした基地を持っていませんから、東海岸のヴァージニア州ノーフォークからフィルモア大統領の親書を携えて出航しました。大西洋を横断し、ケープタウン、シンガポール、上海、琉球(沖縄)等を経て江戸の入り江に辿り着いたのです。地球を東回りで半周して来たのですから、ご苦労なことです。途中、長崎を経由しなかったのはオランダ海軍を警戒してのことでしょうか。
 どちらにしても、サスケハナ(Susquehanna)号率いるもう一隻の蒸汽船ミシシッピ(Mississippi)号プラス二隻の帆船、計4隻が浦賀に姿を現したことから近代日本史が始まるのですから、アメリカが日本の運命を大きく変えたのは確かです。そしてこの瞬間以降、逆に日本はアメリカにとって、常に気になる東洋の不思議な国となったのです。
 時を置かず明治維新となり、維新政府の急務として北海道開発が大きくクローズアップされます。但し、維新前夜に勝海舟は太平洋経由で西海岸に達していますから、初代知事(開拓使長官)の黒田清隆は同じ経路(太平洋+大陸横断鉄道)を辿って、ホーレス・ケプロンと出会っているハズ。どういう運命の巡り合わせか、清隆はこの博学の士ケプロンに初対面で心酔したようで、北海道開拓使お抱えの外国人としての来日を要請したといわれます。ケプロンはその後すぐ来日し、4年滞在して清隆の期待に充分すぎる程応え、北海道開拓の多くの領域で大活躍しました。ケプロンなかりせば札幌農学校(北海道大学)もクラークもなく、現在の北海道もなかったものと思われます。
 札幌市大通りの西端に並び立つ清隆とケプロンの像、そしてそこから程近く円山にあるアメリカ合衆国総領事館。昨年春総領事館を訪ねカリフォルニア出身の女性の総領事とお話しした時も、今や世界のワイン地帯のモデルにまでなったNapaのことで話に花が咲きました。どういう因果でか、Napaこそ余市・仁木ワイナリーゾーンを作り上げる上で最重要な先験地と考える私が、特に農業分野で多くの功績を残したケプロンのことを何時も念頭に置いて話をするのは、きっと彼の気高き理想主義に魅入られてのことでしょう。