98 .文章を書くということ

2017/02/19

  かつて25年前、新潟でCave d’ Occi(カーブドッチ)というワイナリーを興した時、現在同様会員制の組織を作りました。そしてその会報誌の巻頭に毎度原稿用紙4枚程の雑感を書いたのが、私の物書きの始まりです。
  新潟で80回程、余市に来てのOcciGabiWineryでは「from the good Earth(よいちより)」と名付けた会報に18回、ぶどうやワインのことを軸に書いております。さらには自分の健康年令をあと10~15年と想い定めて、一昨年春からfacebookにも週に一度の割合で書くようになりました。エッセイなんてシャレたものでは決してなく、雑文の類をです。
  妻のGabiとは二人きり(といっても同居猫が8匹居ますが)の生活ですから、よく話し合います。その時、対話していて十分相手の気持ちを考えながら喋っているつもりなのに、結果としては相手を怒らせてしまうことの多い私です。よく考えると、こちらの心の中に在るものをより多く相手に伝えようとするあまり、余計なことを2つ3つ(時には4つも5つも) 付け加えるからなのでしょう。ハンガリー出身の数学者ピーター・フランクル氏が炯眼にも、「日本人を見ていて気が付いたのは、相手を傷つけると向うが感情的になり、論理的に完璧な意見でも拒否してしまう」と看破した通りです。
  我がGabiは(本名雅美で生粋の日本人です)、男女問わず私の今迄知り合ったどんな日本人にも負けず理知的で論理的なのにこんな案配でして、結果私は自分を対話上手だとは思わなくなりました。来訪者があった時に妻が同席して、そのお客の帰った後、よく彼女に言われます。「あなたは、自分の尋ねたいことを、遠慮せずに必ず尋ねる人ね」と。会話とは情報交換の場と考えているせいでしょうか。
 そんな訳で文章を書くことに逃げ道をと思った訳ではありませんが、それでも最近では自分の性格に適った表現方法だと考えるようになりました。先日大きな銀行のお偉いさんから、「落さんの文章は情け容赦が無さ過ぎる」とまで言われてしまいましたが、話し方ならまだしも、書いた文章までもが本心を隠してとなると、自分のアイデンティティーはどうなるのでしょう、という思いです。
  最近、飛行機に乗る時に買った村上春樹の「雑文集」という本で、彼の経歴や考え方を詳しく知るにつけ、何故彼の文章が殊のほか上手な文章でもないのに、人を魅き付けるのかがよく理解出来ました。そして何故妻のGabiは彼の本を多く読むのに、私はいつも中途で飽きてしまうのかも。不遜な言い方ながら、彼は私に似ているのです。勿論、能力には大きな差があって、彼の1/10も私は表現し切れない。別に小説家になる気もなく、文章を書いて生業(なりわい)を立てている訳でもないので、そんなことはどうでもよいのだけれど、何となく自分自身と妻のために書き残しておきたいことを少しずつ書いていることになります。